こんばんは インスパイラル ブログです。今日は、北京オリンピック自転車ロードレース男子の
日本代表として、見事完走を果たした宮沢崇史選手についての
の新聞記事をご紹介したいと思います!是非、読んでください!
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『母を助け 僕は走る』(8/10 朝日新聞より)
トップがゴールして31分が過ぎた。観客もまばらになり始めた時、自転車ロードレース男子の宮沢崇史(30)がゴールに帰ってきた。
北京市内を出て、約80㌔離れた万里の長城付近の24㌔周回を7周。全長245㌔。五輪初挑戦の結果は86位とほろ苦かったが、レース後サングラスをとるとすぐキョロキョロとあたりを見渡した。沿道で応援していたはずの母に、真っ先にゴールを報告したかった。
「久しぶりに息子の走りをみて元気出たかな」
純子さん(60)が病に倒れたのは7年前の秋。小1の時に父を病気で亡くした後、女手一つで育ててくれたが、肝硬変の悪化が発覚した。
医師からの宣告は「生体肝移植しか、治療法はない」。「息子は自転車選手」と首を振る母に言った。「たいしたことないよ。おれの肝臓を移植すればいい」。
腹筋にメスを入れることは選手生命を左右しかねない。それでも「母親に感謝の気持ちがあった。そんなにすごいことをしたとは思っていない」という。
中学の時、テレビで見たツール・ド・フランスにあこがれ、高校卒業後は自転車レースが盛んな欧州に留学もした。協議を続けてこられたのは、母の経済的、精神的な支援のおかげだと感じていた。ためらいなく、肝臓のほぼ半分を母のために切除した。
ただ、現実は甘くない。手術後の3、4ヵ月は軽い運動をすることも許されず、鍛え抜いた体は衰えた。リハビリをしても以前のようには力が入らない。競技復帰したが、結果が出せず、前所属先を解雇された。(しかし「母を悲しませたくない」と、貯金をはたいて渡米。アマチュアレースで経験を積み、06年に現在のプロチームと契約。)06年、07年とツール・ド・おきなわで連覇し、08年アジア選手権でつかんだ五輪切符は、そんなどん底からの再スタートから勝ち取ったものだ。
残り50㌔付近から先頭集団から遅れ始めた。「一人になるとなかなかぺースは上がらない。でも、最後まで走り切ろうとは考えていた。お世話になった人たちにリタイアなんて、申し訳なくて……」
10㌔以上の上りが続く坂を7回繰り返す難コースで、ただペダルを踏み続けた。今年のツール・ド・フランスで活躍した選手らも「タフだ」と口を揃えたが、平坦を得意とするスプリンタータイプ(宮沢選手)なら、なおさらのことだ。
それでも苦しくなると、応援に呼んだ母の言葉を思い出した。
「一番きつい坂で待っているから」。
結局、レースに集中しすぎて、気づくことはなかったが、レース後すぐに母からの電話が鳴った。
「どこにいる?」
そっけない会話の中に、母への思いがつまっていた。
[左]ゴール直後に携帯で母を探す宮沢選手!(8/10朝日新聞)
[右]レース後、母純子さんと完走を喜ぶ宮沢選手!(8/10読売新聞)
「100%力を出せた。100%の準備をしてきたので、悔いはありません!」
と晴れやかな表情を見せてくれた宮沢選手!
宮沢選手の人としての強さ、優しさが垣間見えた素晴らしいレースでした。本当にお疲れ様です!そして、これからの更なるご活躍を楽しみにしています!
最後にご参考までに、宮沢選手がレース中に使用されていたサングラスの色違いです!
ハイスペックスポーツアイウェア「RADAR」!
あらゆるスポーツシーンを想定した、超本格派スポーツモデル!
有害な光線はもちろんのこと、レース中に襲い掛かってくる埃や小石などからも目をガッツリとガードします!
ご自身でレンズ交換可能なタイプであるため、天気や環境、度付きor度なしなどの様々なシーンに対応できる機能を持っています!
さ~、今後の日本選手の活躍をみんなで応援しましょう!
それでは、また明日お会いしましょう!おやすみなさいませ~い!